2024-09-30
柿本
「真実はいつもひとつ!」
これは、からだは子供、頭脳は大人の「名探偵コナン」君の決めセリフだ。
ここでいう「真実」とは、トリックや犯行理由でよく使われる言葉だが、物語を成立させるためにも、「理由のない」無差別殺人が、真実になることはないだろう。「実は、犯人はずっと恨みを抱えていたんですよ・・・そうですよね?〇〇さん」など、聞いて「ああ、そうだったのかー!」という納得の展開に読者は満足感を覚えるのだ。でも…、本当なのかい?コナン君。
殺された者の視点がいつも抜けている、と思うのだ。死人に口なしで客観的な事実は、もはや藪の中だからだ。
「ずっと俺をいじめていた父親…」と恨む息子。その父親は「社会は厳しい。小さいころから負けないように厳しく育てた…」と、双方が思っていたとする。いや、私のことではないですから。
「真実はいつもひとつ。息子さん、あなた、お父さんを恨んでましたね…?(ニヤリ)」
息子からしたら、そうだろう。しかし、父親的には子供のことを思って厳しく教育してきたのだが…。
●息子の見方
「父親が自分の考え方をゴリ押ししたのがまずかった」
「相手にあわせて表現を変えるべきだった」
「そんなこと言えるほど父親は立派なひとなのか?」
●父の見方
「そもそも人を殺してはいけない」
「たとえ毒親でも立派に成長した人は、やまほどいる」
「立派なひとしかモノを言えないのか?世界は釈迦やキリストばかりではない」
それぞれに言い分があり、それぞれが思う「真実」があるのではないか。真実とは、だれかの思いが乗るものなのである。そう見ようと思えばそう見える。そんな馬鹿な、と思うかもしれないから科学的な言葉で言い直そう。
「観測の視点によって結果は変わる」のだ。
たとえばダイヤモンド。「ダイヤモンドとは何だ?」という質問に対して、硬さという観測視点をとったものは「硬い」となり、燃えやすさという観測視点を取ったら「燃えて灰になるもの」となるだろう。「それは単なるものの性質ではないか」とお思いだろう。その通り、決してひとつでないこれら真実には観測者の意志がつきまとっている。
「実は…」と語るとき、この文には、作者の思い、あるいはそう信じているという思いが乗っているのだ。
①ひとが殺された(事実)
②実は、殺したのは優しい人で殺されたのは悪人だった(真実)
私達は、本来善良な犯人の今後のことを思うと、なんともやるせない気持ちになるだろう。
③殺したのは生来の極悪非道、殺されたのは超善人(真実)
だったら架空の設定とは言え、怒りを覚えるのではないだろうか。事実は淡々としていて数値化できるが、私たちはそれでは面白くないので納得のストーリーをいつも探しがちなのだ。
この考え方は数年前に書かれた「ファクトフルネス」に通じる。
「バイアスを捨て、事実に基づいてものごとを見よう」というのがファクトフルネスの考え方だ。
私たちは自分の知的枠組みのなかで物事をとらえようとする。というか、それしかできない。
語彙は論理の基盤であり、その人の論理を越えてものごとはなかなか理解できないからだ。
ではどうしたらいいか?
実は、もうひとつ、書かなかったコトがある。
●息子の見方
「二人はもっと話しあうべきだった」
●父の見方
「二人はもっと話しあうべきだった」
この考えは共有できるのではないか?
異なる語彙の枠組みのふたりが真に理解可能になるか?を憂いていても始まらない。
先人たちは外国語の文献を翻訳して外国人と相互理解してきたし、将来、宇宙人がもし地球に到来しても、きっと水素(最も単純な元素)の構造や、数学の論理(宇宙で不変)などを手掛かりに、それぞれの真実が平行線に見える両者もきっと理解しあえるようになるはずだ。
今朝、夫婦喧嘩したあなたも、だから安心していい。あ、私のこと…です。これは。
さあ、対話をしよう(力強く)!