2016-03-14
神戸
昨秋、旧い学友8人で東北地方を旅した。 一度あの震災の痕跡を自分の目で見ておくための2泊3日の旅行であった。 メンバーは東京、大阪、福岡に在住する者たちで、午前9時過ぎに東京駅新幹線口に集まり北へと向かった。
仙台で乗り換えた在来線の車窓から見える海岸線は、切れ目なく津波の爪痕が続き、その規模の大きさははるかに我々の想像を超えるもので、新幹線の中ではにぎやかだったメンバーもつい口数が減った。 ただ、いずれの場所でも復興のつち音が高らかに響き渡り、動き回る建設用重機、ダンプカー、作業員の数はおびただしいものであった。 工事は、土地造成、防潮堤築造、道路、橋梁、ビル、住宅と多岐にわたり、これに東京オリンピック関連の工事が重なったら、九州などは建設作業員が空っぽになるのではないかと心配になるほどであった。
一日目の宿泊は志津川の観光ホテルで、津波が2階の天井にまで達したということであったが、すっかり修復ができていて美しかった。 仲居さんの話によると、最近は宿泊客が多く、どこのホテルも満室であるとのことであった。 観光客はもとより、就学旅行の学生が多く訪れるようになり,有り難いとも言っていた。 仲井さんの話しの通り翌朝の大食堂は老若男女多くの人でごった返していた。
二日目は気仙沼を経て陸前高田市まで足を延ばしたが、高田市は町全体が津波で壊滅し、町を高台に移すという壮大な工事が進められている途上で、駅の近くには昼食をとる所すら見あたらなかった。 私たちはボストンバックを抱えたままレストランを求めて駅の近くを歩き回ったが、町には建設関係の作業員以外に人影は少なく閑散としていた。 しばらく歩いたところに仮設の市庁舎があり、そこで食事処を聞くために入ろうとしたところで、偶然に市長に出くわした。 彼は震災の報道番組で見たことのある人であった。 市長は私たちの来訪に謝意を述べ、私たちは市長を励ますという10分足らずの立ち話の後、1枚の記念写真をとって別れた。 それまで、被災地を物見遊山的に旅行することに後ろめたさを感じていた私たちであったが、市長から感謝の気持ちを表されて、大いに気持ちが楽になった。 後日メンバーの一人が出来上がった写真を送ったところ、市長が自筆で書いたはがきが届いた。 はがきには、謝辞と前向きに頑張る旨の決意が書かれていた。
宮城、岩手の2県の要所を廻り、再び仙台駅から新幹線で東京に向かったが、車中でビールを飲みながら語り合ったことは、来てよかったと言うことで、8人全員が同じ想いであった。 我ら8人はいずれも後期高齢者に差し掛かる身で、ボランティア活動などは望むべくもないが、被災地の現状を直に見て、理解し、地産の土産物を買って帰ることで、ささやかながら復興支援の支えにはなったかもしれない。
この未曽有の大震災から学ばねばならぬことは山ほどある。 防災や減災のことはもとより、社会のあり方、家族のあり方、さらには個人の生き方まで見つめなおさなければならない。