スタコラ:2015-01-19

愛犬

2015-01-19
神戸

 ずいぶんと昔の話、私が小学校の三年のころ、一匹の捨て猫を拾って帰ったことがある。 猫嫌いの母の眼を盗むようにして家の片隅で飼っていた。 おそらく不幸な生い立ちであったのだろう、子猫はいつも何かに怯えていたが、私だけにはなついて学校から帰ると待ちかねたようにすり寄ってきた。 しかし、一度背負った不幸は離れ難いものなのか、そのうち体のあちこちに出来物が出来始めた。そのころは人間の医者や薬もままならぬ時代で猫の薬など手に入るどころではなかった。 それまで黙認していた母もついにたまりかねて、捨ててくることを私に命じた。 しぶしぶ捨てに行っても近くに置いて帰るものだから、猫はすぐに戻ってくる。 二度、三度と繰り返すうちに、もっと遠く川の向こうに捨ててきなさい、と命じられて、泣き泣き川の浅瀬を渡り向こう岸に置いて帰ったが、その時の猫の悲しそうな泣き声は六十数年たった今でも私の耳底に残っている。
 それから二度と家で動物を飼うことはなかった。

 それが二年ほど前に犬を飼うはめになった。 病気で他界した姉が飼っていた小形犬で、夫に先立たれ子供もいなかった姉の唯一の家族であった。 朝起きると何かを犬に話しかけ、犬もそれなりに応えていたものである。 その姉が、死に臨んでもっとも気がかりだったのはこの犬のことで、多額の養育費と共にその行く末を私達夫婦に託した。

 犬は、現在4歳、体重3キロの室内犬で我が家にもすぐに馴染んだ。 最初は犬好きでなかった妻も愛情が芽生えたのか、今では抱き上げて頬擦りをするほどになり、私達夫婦の生活に潤いを与えてくれる存在になった。
 犬は、人間をランク付けするものらしく、厳しくしつける妻が一番で甘々の私は二番である。 「お座り」や「待て」など妻の命令には素直に従うが、私の命令には横を向いてあくびなどしている。 どうも私のことは主人というより同僚か友達としか思っていないらしい、それでも私が外出から帰宅するとちぎれるばかりに尾を振って出迎えてくれる。
 朝夕の散歩が私の日課で、糞を始末する小物を入れたカバンをぶら下げて小犬を引いた姿は、大の男の立ち姿としてあまりかっこいいものではないが、健康増進の一助となっていることは間違いない。歩いているうちに犬友が出来ることもある。この種の犬の寿命は十五年、長いものは十七年を超えると動物医者はいう、そうなると私とどっちが先かという不安が残る。

 犬は、厳しくしかもぶれずに接する人間に尊敬を払うようだ。 それにきっちりとした食事を与えるならば犬の主人としては申し分ない。 ただ可愛がるだけでは尊敬を集めることは難しい。
 人間と犬とを一緒に扱うのは不謹慎かもしれないが、人間の子育ても同じように思える。 ただ人間の場合は、落ち込んだ時に逃げ込む場所を用意しておくことが必要である。
 我が家の場合、一徹で厳しい母親と、いい加減で甘々の父親がいて子育てはうまくいったかもしれない。

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