2022-11-28
森本
W杯になって急にサッカーについてあれこれ言う人は「にわかサッカーファン」と呼ばれますが、私は間違いなく、その、にわかファンです。
とは言うものの4年に一度だけサッカーファンでいることを40年以上続けていると、これはもう「年季の入った」にわかファンでもあるわけで、日本語としては変な感じです。
がんばれ、ニッポン。
スポーツの国際大会で最近よく言われるように、今回の大会でも、ゲーム終了後にゴミ拾いをする日本人サポーターのことが取り上げられました。
今回はその行為を大会組織委員会が表彰したこともあっていつもより大々的に報じられました。
報道が大きかったせいでしょうか、そこにイチャモンを付けるような意見がありました。
「ゴミ拾い褒められて喜ぶ奴隷根性」「ゴミ拾いを褒められて有頂天になる日本人が悲しい」
「観客が掃除まですると、清掃を業にしている人が失業してしまう」「他人(=清掃する人)の職を奪うな」
いつもなら、まぁそんな意見もあるかもねと聞き流すのですが、今回は少し考えてみました。
どんなことでも褒められると嬉しいものです。
しかし、当たり前のことや誰でもやっていること、あるいは好ましくないことや反社会的なことを褒められた場合は、得意げになるのは恥ずかしいことのように思えます。
だけど、ゴミ拾いは(今の所)誰でもやっているわけでもなく、反社会的なことでもありません。
恥ずかしがる必要はなく、表彰されても「いやいや、当然のことなので」と辞退すればよかったのかな、とも思えますが、ドイツに勝ったばかりの興奮状態もあったし、わざわざ組織委員会の方が来てくださったのだから、ここは素直に表彰を受けましょう、という感じだったんじゃないでしょうか。
奴隷根性でもなく、日本人を悲しがることでもありません。
清掃する人の職を奪う、というのは言い過ぎもありますが、考えられる事態です。
遠い将来、誰もが身の回りのゴミを自分で始末するようになったら、そのような職業はなくなりますし、そうなる未来は想像できます。
ここで問題にすべきは将来未来の話でなく、現実に今、それによって糧を得ている清掃業に携わっている人の職です。
少し考えたらわかりますね、絶対に、その清掃業は必要です。
だってスタジアムを訪れた全員が身の回りのゴミを拾うわけでもないし、日本人だけでスタジアム全体のゴミを拾えるわけでもないし、ちゃんとした清掃が観客にできるわけでもないので、専門の清掃スタッフは必要なままです。
もしかすると少しはラクに清掃できるようになったかもしれません。
そもそも、ゲーム終了後のゴミ拾いを清掃と同一視しているのがずれているような気がしてきました。
なにも清掃業に携わっている方の手間を軽減しようなんて意図はなく、ただ「自分が出したゴミくらいは自分で始末しよう」というだけのことです。
「きれい好き」とか「次の人のことを考える」とかでなく、「自分が使う前の状態に戻しておく=元に戻す」が本質です。
「そうじ」よりも「かたづけ」に近い感覚。
日本代表が使った後のロッカールームの写真を見た各国の少年サッカーチームにはこれを真似る風潮が生まれているとも聞きました。
十年後には普通になっているかも、です。
前回のコラムで、ある問題では後進国と言われている日本ですが、こっち側(?)では先進国ですよね。