2021-01-18
神戸
天平二年(730 年)の春、大宰府の帥(長官)大伴旅人の邸宅で行われた梅花の宴が、現在の元号令和に深くかかわっていることは誰もが知っていることでありましょう。
この梅花の宴が行われてから五年後の天平七年、筑前那の津(現在の博多)地方に疫病が発生し、人々を恐怖に陥れる事件がありました。疫病は天然痘ウイルスによるもの(疱瘡)であったのですが、このころこの病に対する知識を持つものは皆無でした。
驚いた大宰府政庁は、医師や陰陽師たちに対策を命じましたが、新種のはやり病であること以外何もわからず、打つべき方策は何も見つかりませんでした。一部では、唐よりの帰途那の津に立ち寄った遣唐使船が持ち帰った病であるとも、新羅から帰った船が持ち帰ったとも噂されましたが、真偽のほどは分かりませんでした。
人々はかって経験したことのないこの病に恐れおののいたが、対処すべき方法を知らず茫然自失するのみでありました。
大宰府政庁は管内諸国の社寺仏閣に命じて疫病平癒のために加持祈祷を行わせたが、猛威は一向に収まりませんでした。疫病は山陽道を駆け上り、まもなく平城の京にも侵入しました。このため身分の上下を問わず多くの人が命を落としました。
この時のありさまを続日本紀は次のように伝えています。
『この年の春、疱瘡おおいにおこる。はじめ筑紫より来たれり。夏を経て秋に渉り、公卿以下、天下の百姓、あい継ぎて没死するもの、あげて計うべからず、近代よりこのかた、いまだこれあらざるなり』
大宰府や朝廷の高官をはじめ多くの農民が命を落とし国中が混乱の極みでありました。病渦は人口の25%~35%の命を奪ったといわれています。大宰府高官で梅花の宴にも参加した、小野老や紀男人がこのころ相次いで没しているのもこの病渦と無関係ではないと思えます。
現在のコロナウイルスによる混迷を見るにつけて、1300 年前のウイルス渦がいかに大変なことであったかが偲ばれます。疱瘡は二年余り猛威をふるったあと終息しましたが、終息のメカニズムについては諸説あるようです。
現在の新型コロナウイルスによる災禍もやがては収まるでしょうが、それまでは辛抱するしか仕方ありません。頑張りましょう。