2020-02-17
神戸
元号が令和と改まって以来、大宰府が令和の郷として全国的に有名になりました。ゆかりの地大宰府の師(長官)大伴旅人の邸宅があったとされる坂本神社は連日観光客でにぎわっています。
天平 2 年(730)1 月 13 日、大宰府の師(長官)大伴旅人の邸宅で梅花の宴が行われました。出席したのは大宰府の高級官僚と地方の国守、国司ら 32 人で、その中には太宰少弐小野老や筑前国守山上憶良がいました。いずれも位階に応じた色鮮やかな朝服(日常勤務服)をまとっており、正三位の大伴旅人は浅紫、従五位上の小野老と従五位下の山上憶良は浅緋色の朝服でありました。
出席者全員が一首ずつの和歌を詠み、それを歌集としましたが、その歌集の序文の中から令和という元号が考えだされたわけです。この序文を書いたのは山上憶良であったという説を唱える専門家がおります。彼の文学的素養と語学力から推してそのような説が生まれるわけです。憶良ファンの私としては大いに賛成であります。
憶良は、若いころから語学に秀でており遣唐使に記録係として加わっております。また聖武天皇が若かったころの教育係にもなっています。出自の低さから従五位下までしか昇進することはできませんでしたが、彼の残した歌には貧しい人々を思いやるものや子供への愛情を読んだものが多く、1300 年の時空を超えて今でも人々に愛されています。
憶良と旅人のつながりは、年齢では憶良が上ですが、地位は従五位下と正三位と大きな隔たりがあります。それにも関わらず二人の親交は厚く、旅人の妻がなくなった時に旅人に代わって悲しみを読んだ憶良の和歌が残っています。
旅人と憶良を中心にしてのちに筑紫歌壇と称されるような和歌のサロンが形成されていたのでしょう。旧暦とはいえ 1 月 13 日はまだ寒かったはずですが、催された梅花の宴は暖かい春の兆しを思わせます。おそらくこの頃の筑紫地方は平和で穏やかな時代であったのでしょう。
令和の時代も平和で穏やかな時代であるような期待が持てます。