2013-05-27
柿本
壱岐の話題が出ていたので・・・。次は五島かな、と。
私は父の仕事の都合で2年間、長崎県五島市(当時は福江市)に住んでいた。
長崎市からの転勤だ。
短い期間だったがその日々は私の人生に大きく影響を与えた。
はじめて「親友」と呼べる友人に出会い、はじめて「音楽」に目覚めて作曲をし、はじめて「異性」を好きになった。
転校生だった私は「都会もん」と呼ばれ最初はクラスの輪の中に入れなかった。
そんな中、背の高い一人のクラスメイトが「遊びに行っていい?」と、私のうちに来てくれ、それをきっかけに友達が一人またひとりと増え、みんなと仲良くなれた。
話してみるとわかったのだが、五島の人はみな心優しい。
とりわけ、T君・H君とは気が合い、「悪がき3羽烏」と呼ばれていた。
いつもくだらぬ話をして、少年達は盛り上がっていた。
男同士なのに、たしか交換日記のようなものをしていて
「お前はあいつが好き。俺はあの子、おお、お前はあいつか。よし、ケンカしない」
と、好きな子にそれぞれA,B、Cと暗号を割り当て、子供ながらの秘密を共有し、お互いに有益な情報を交換しあった。
「ABC」といえば、「Aはキスを意味するらしいぞ」などという人生においてきわめて重要なことを学んだのも、この頃だ。
友達だけでない。先生もすばらしかった。
印象的だったのは理科の先生。
「終わった人から持ってきなさい」テストのとき、先生がそういうと、生徒はすぐに鉛筆を走らせ誰よりも早く解答欄を埋め、席を立ってめいめい先生に提出していく。
先生はその場でそれをリアルタイム採点してくれる。
成績のいい者は「班長」に任命され、理科室における「いい座席」が与えられるシステムなのだ。
そんな「ちょっとした優越感が味わえるゲーム」に私たち生徒はすっかり夢中になった。
生徒同士で手をつないで輪を作り、一番はしの二人に電極を持たせ、「いくぞ!」とぐるぐる発電機を回して「感電」させるという恐怖の実験もいまとなっては懐かしい。
理科に限らず、そういえば私たちは毎日よろこんで家庭でも勉強していた(ときどき鶴光のオールナイトニッポンを聞きながら)。
クラスの生徒全員が一日10ページも20ページも進んで勉強するのだ。
だから、大学ノートはすぐになくなった。
ページを稼ぐため、問題集の問題と答えをただひたすら写していた日も多々あったように思う。
クラス担任は、そんな私たちの「べんきょう」に、一言コメントを毎日欠かさず書いてくれるのだ。
とてもやりがいがあった。
数年後、無事に大学に進学できたのも、五島でのこの「勉強体験」が大きかったと私は思っている。
少なくとも「夜、机に向かってノートに何かを書く」ということはマスターしたのだ。
そんな楽しい日々も、またまた父の仕事の関係で終わりの日が来た。
もといた長崎市に帰ることになったのだ。
卒業文集で私は、当時流行していた沢田研二のヒット曲「LOVE~抱きしめたい」をもじってこう書いた。
「やだ~帰りたくない!」
五島は、少年の心をすっかり虜にしていたのだ。
そんな五島は、海に囲まれた美しい場所です。みなさん、ぜひ一度足を運んでみてください。
香珠子(こうじゅし)ビーチのさらさらの砂浜があなたをお待ちしています。