2006-05-31
森本
最近の医療施設はどこも明るくて清潔で開放的だ。
清潔なのは、きっと昔からなのだろうけど、幼い頃の私にとっては病院というと、注射や点滴、外科手術などのイメージと重なって、少し暗くて湿った感じの得体の知れぬ恐怖とともに喚起される、日常とは異質の空間だった。
小さなガラス窓越しの受付、古びたスリッパで歩く廊下、皆うつむきかげんな待ち合い室の人々、何よりもあの特有のにおいが怪し気な雰囲気をかもし出しており、こんな所には絶対に長くいたくはないと感じていたように思う。
こんな恐ろしい場所にいつもいる医師には、いろんなタイプの医師がいたが、とにかく偉い人なのだろうとは思っていた。皆が敬語で接する姿勢だけでなく、聴診器を持っていたり、カルテに何やら書込む姿がいかにもそれらしい。
少し恐いけど、とても偉い人。私が医師に抱いていたイメージだが、ある程度の威厳や信頼感は世間の誰もが抱いていたはずだ。
高校の同級生の何人かが医師免許を取得した。
一緒に麻雀を覚え、一緒に隠れて喫煙を覚えた友人達だ。
当然、恐くもないし、全然偉くもない。威厳など感じたこともない。だけど、少しだけ信頼はしている。
彼らの職場の中に入ったことはないけれども、外から眺めたことのある建物はどれも立派で綺麗だ。世の中の建物は昔に比べると総じて美しくなったのは当然のことだが、その顕著な例が、個人経営の医療施設とパチンコ屋だと私は信じている。
「パチンコ業界の経営戦略セミナー」で、ある基調講演を聞いたのは、今から15年程前のことだ。
どの研究発表(?)も異様な熱気で盛り上がっていたのが印象的だった。
その講演では「街におけるアミューズメント施設のもう一つの役割」といった内容を話されて、街の中に存在するあらゆる機能は(パチンコ店と言えども)そうした役割を担っており、それを果たすことで街の再生に与える影響は小さくはないという主旨であった(と思う)。
実際にパチンコ屋さんが街の再生に寄与できるかどうかはともかく、何らかのコミュニティを実現する場であることは間違いない。
社会人になってとんとご無沙汰になってしまったが、学生の頃はパチンコ屋で知り合った友人というのもいた。
さて、医療施設の話である。
残念なことに私には、病院で知り合った友人というものはいない。初めて会った医師と親しくなったこともなければ、女性の看護士さんとも仲良くなったことがない。本当に残念なことだ。
一昨年、一週間程の入院を余儀なくされた時に、日に何度か喫煙場所に行くことがあった。
そこは病棟の外の小さなスペースで、病院内の他の場所よりも、うす暗く、いくらか汚い所だった。
そこでのみ顔を合わせる他の入院患者とは、日が経つうちに挨拶を交わすようになり、ホークスがどうだとか小泉がどうだとかのくだらない話をするようになった。入院期間が長ければ、もっと色んな話をしたかもしれない。
その喫煙場所がもっと綺麗で、他人の吐いた煙とは完全に遮断され、いつも灰皿が清潔であったなら、果たして喫煙者どうしが気軽に会話ができる場となっていただろうか、という疑問を感じる。
屋台でのコミュニティがシティホテルでは絶対に味わえないと同様に、暗く湿った(そして隔離された)喫煙場所でのコミュニケーションが、明るく開放的な場所では決して味わえない、というのは穿った見方だろうか。
清潔で明るく開放的であることがコミュニケーションを疎外しているわけではなく、そうでない空間には、そうでない空間特有の雰囲気があって、その怪し気な雰囲気の中でのみ作り出される不思議な安息感がもしかするとある種のコミュニティを醸造するためには不可欠な要素であるようにも思える。
この怪しさ、いかがわしさ、暗湿性は多くの人に、心地良さとは正反対のイメージを与えるものだろう。
しかし、そこから生まれるコミュニティさえも否定する気持ちが、大事な何かを捨て去っているような気もする。
誰もが不潔なのは嫌だし、暗い所も苦手だろう。
明るく清潔で開放的であるにもかかわらず、多くの人が心から落ち着けて穏やかな気持ちになれるような空間というものがあって然るべきではないだろうか。
そしてそれを医療施設にこそ求めたい。
経営環境が悪化しているという医療/介護サービスにあって、前段の話はただのサービス利用者である門外漢のたわ言である。
だけど友人達には口を酸っぱくして言いたい。
「もっと喫煙スペースを快適にしてくれ」
この歳まで喫煙している者はいないので、私の願いが聞き入れられる可能性は極めて低い。