2006-09-25
神戸
この夏、妻とともに鹿児島県を旅行した。鹿児島湾を左手に望みながら薩摩半島を南へ下り最南端の指宿市で一泊した。
翌日、開聞岳の美しい姿をいろいろな角度から楽しんだ後、広大な茶畑の中の道路を北へと車を走らせて知覧町へと向かった。
途中、手入の行き届いた茶畑は美しく、漂う空気までが清清しかった。
知覧に着くと駐車場に車を預け、武家屋敷街を散策した。何軒かの屋敷内を拝見して、今は住むに適さない古い家屋敷を維持してゆくことの困難さが偲ばれた。
武家屋敷を堪能した後、特攻記念館へと足を延ばしたが、ここに来てそれまでの旅の浮かれた気持ちが冷めた。
館内には、当時を偲ぶ数々の遺品が展示されているが、中でも圧巻は特攻隊員の残した遺書である。
出撃を前に父母に宛てた見事な筆致で書かれた遺書は見る者の心を打つ。
二十歳そこそこの身でありながら、国のために死を覚悟して南の空へ飛び立って行った若者の遺書に、小泉前首相が涙したことはテレビ報道で知っていたが、首相ならずとも、熱いものがこみ上げてくる。
しかし、続いて湧き上がるものは、かくも多くの有為な若者を死地へと向かわせた為政者への怒りであり、若者をそこまで洗脳した教育の恐ろしさである。妻も同じ思いであったのか、帰りの車中での口数が少なかった。
昨今、教育改革が政界で大きく取上げられている。
安倍新首相もそのことを公約として掲げている。
確かに、頻発する凶悪事件、学級崩壊、若者の無軌道ぶりを目にするとき、教育の見直しが緊急の課題であることは間違いない。
戦後の教育は、戦前の反省に立って、公より私を、義務より権利を重視してきたように思われる。
その結果が現在のような社会の荒廃を招いたことは否めない。
戦前のように、愛国心の名の下に為政者に都合の良い従順な国民を育てるために教育を施すことには反対だが、いま少し、私より公、権利より義務を尊ぶ方向へ軌道を修正する時期に来ているようだ。
ひと口に教育といっても、様々な場面での様々な教育がある。
その中で、今必要なのは小学校低学年までの幼児教育ではないだろうか。
幼児教育に最も大きく関わるのは家庭であることは間違いないが、国の教育方針と家庭の教育方針が違った方向を向いているとしたら、子供は戸惑うに違いない。
これからの教育に望むことは、知育よりも徳育である。
美しい物語やドラマによって子供に感動を与え、自然や動物と触れ合わせることによってやさしさや思いやりを養う。
三つ子の魂百まで、幼い時分に培った心は一生続くにちがいない。
善悪美醜が判断でき、正しいことのために行動する。読み書きそろばんはその次でよい。
心を揺さぶり人生を方向付けるような感動を子供に与えるためには、教える側の教師が豊かな感性を持ち合わせていなければならない。
文学に親しみ、映画や演劇に感動し、スポーツで悔し涙を流した経験をもつ人でなければならない。高度な数学や語学は必要ない。
子供とともに花を愛で、鳥の声に耳を澄まし、遠くの星に思いを馳せるような心豊かな人が教師を志してほしい。
そして、教員採用試験をそのような方向に改革してもらいたいものだ。